大判例

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京都地方裁判所 昭和50年(わ)1297号 判決 1978年5月26日

被告人 笠岡忠利

昭一四・一二・一二生 調理師

主文

被告人を禁錮八月に処する。

この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、京都府知事からふぐ処理士並びに調理師の各免許を受け、昭和四一年ごろから京都市中京区西木屋町通四条上る紙屋町三五七番地所在の料理店「政」において、ふぐなどを調理し同店の来客に提供する業務に従事していたものであるが、昭和五〇年一月一五日午後八時四〇分ごろ、同店に客として訪れた板東三津五郎こと守田俊郎(当時六八才)に対し、とらふぐの刺身などのふぐ料理を提供した際、とらふぐの肝臓には毒物であるテトロドトキシンが多量に含まれている場合がありこれを食すると、いわゆるふぐ中毒により死亡する危険があるから、とらふぐの肝臓を調理して客に授与することは厳に差し控えるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、とらふぐの肝臓数切れ(重量十数グラム)を調理して右守田俊郎に提供して食せしめたため、同人をして翌一六日午前四時四〇分ごろ、同市右京区安井馬塚町一八番地泉谷診療所において、ふぐ中毒に基づく呼吸筋麻痺により窒息死させたものである。

(証拠の標目)(略)

(因果関係及び客観的予見可能性等について)

1  前掲各証拠、とくに京都府立医大教授山沢吉平作成の鑑定書及び同人及び証人泉谷守医師の各証言により被害者がふぐ中毒による呼吸筋麻痺により窒息死したことは明らかである。

弁護人は、被害者がふぐ中毒にかかつたことを知つてこれを看護すべき者が、ただちに医師に連絡せず、医療の機を失したため本来助かるはずの被害者が死亡した旨主張し、証人泉谷守医師の証言中には、例えば「午前一時から二時の間にふぐ毒の血中濃度が最高になつて、一番苦しみ、嘔吐もしているはずであり、午前三時ごろ初めて症状が現われるというようなことは医学的には考えられない。」旨の供述があつて、ふぐを食してから症状が出るまでの時間(通常は二、三時間後に症状が出るという)、被害者の胃中の、出血量、酸素不足で長時間苦しんだためにできた肝臓のいたみなどの事実が右を裏付ける旨専門的見地に立つて証言しており、右泉谷証人が被害者を最初に診察、治療した医師であることを考えると、右証言内容は当公判廷で調べた他の証拠と照らし合わせて慎重に吟味されねばならない。

証拠によれば、被害者の妻守田たねが証言するように午前三時すぎごろにふぐ中毒の症状が初めて現われたとするならば、被害者がふぐを食べてから中毒症状が出るまでなるほど約四時間三〇分以上経過していることになるが、被害者の妻である右守田たねの証言はさて置くとして、ロイヤルホテルのナイトマネージヤーであつた吉田勝也は、午前三時すぎ守田たねから連絡をうけ、ただちに被害者らの部屋に赴き、「救急車を手配しましようか。」というと、三津五郎が「救急車はちよつと勘弁してもらいたい。救急車よりも町の医者にしてくれんか。」という希望をのべていたので、フロントへ医者の手配を依頼した旨証言している。同証人は本件においていわば第三者的立場にあり右供述は一般的に信用できるものというべきであるが、右の証言は、また、前示守田たねの証言内容とも一致する。そうとすれば被害者は午前三時すぎごろにはまだ冷静に会話できる状況にあつたと認められ、右の事実は、被害者がそれより一時間以上も前にふぐ中毒の症状が現われ嘔吐し最も苦しい状況にあつたとはとうてい考えられない事実といわねばならず、前示泉谷証言は、何よりもまず客観的に認められる事実にそぐわないことになる。

さらに右の点につき専門的見地から見ても、前示山沢吉平の証言によれば、ふぐ中毒の症状のあらわれる時間は千差万別であり、第一に毒の量によつてことなり、さらに体質、年令、就寝していたか否かによつて毒の吸収、排せつの遅速があり、医療処置を加えなければ食してから七、八時間で死亡する場合が多く、食してから六時間ぐらいたつて中毒症状が現れることもある、また被害者の十二指腸から小腸の上部にかけて粘膜に出血が認められ、これは強い嘔吐によつてけいれんを来たした結果と思われることから、すでにそこまで行つていたふぐを吐いたとすれば午前三時ごろ吐いたという点も時間的におかしくないこと、胃中の出血についても約三〇分ないし一時間位でたまる量である旨推定しており、そうとすれば前示泉谷の証言部分は自己の体験を基礎にするものとはいえ単なる推測による証言といわざるを得ず、被害者の妻らが医療の機を失したとの弁護人の前示主張は証拠上認められないことになる。

2  弁護人は、被害者はいわゆる食通であり、ふぐの肝臓(以下単に肝ともいう)が危険であることを十分知つていながら敢て食したのであるから本人の責任であつて被告人の過夫責任は中断される旨主張し、なるほど証拠によれば当夜同席した芸妓もみ鶴が被害者に対し、「肝はこわいもんどすやろ。」と言つたところ、被害者は「そんなん大丈夫ですよ。こんなおいしいものをどうして食べないの。」と言つてすすめている状況が認められ、被害者は肝が肝であることを十分承知し、しかも或る程度肝についての知識を持つて食していることがうかがわれるが、いかに被害者が食通であつたとはいえ、あくまでも客であつて、京都において現に長年ふぐ料理を商売としている被告人の調理を信頼し、提供された肝を食するのは当然の成り行きというべく、また被害者が肝を特に強く希望したとも認め難い本件にあつては、右弁護人の主張は、情状としては十分考慮すべき点ではあるけれども、被告人の過失責任を否定する論拠とはなし得ない。

3  ところで業務上過失致死罪が成立するためには、当該業務に従事する一般通常人が、行為者のおかれたと同じ具体的事情のもとで結果の発生を予見することが可能であつたこと(客観的予見可能性の存在)を必要とし、ついで、その結果を回避するために適切な措置をとりうることを必要とするが、前掲証拠によれば、地方によつて一様ではないが、昔からふぐの肝は最も、美味でこれを食するのが食通であり、また肝を調理できるのが腕のいい調理師であるという考えが一部でいわれていることも事実で、被告人も「とらふぐの肝臓にはふぐ毒が含まれていることはわかつていたが、これまで「政」において八、九年調理してきて全く事故が起きてないこと(ふぐはほとんど例外なくとらふぐであり、大体肝を出している。被告人の計算でざつと四〇〇〇匹ぐらいになるのではないかという)。まるまる一匹分の肝臓を食べ全く異常がないという客もあることから、これまでの調理方法―肝臓を巾約二センチメートル四方、厚さ一センチメートル位の大きさに切つて真水で洗い、塩をかけてもみ、これをぬかを入れた湯で一時間ぐらいゆがき、さらに真水の湯で二〇分ぐらいゆがく、そうすれば一切れの大きさが巾約一・五センチメートル四方、厚さ一センチメートル弱に縮む。(被告人の検察官に対する供述調書)―をほどこせば、大丈夫と思つていた。」旨捜査公判を通じ述べ、証拠上、当夜被害者と一緒にふぐの肝を食べた客のうち守屋俊章はほぼ被害者と同量のきも三ないし五切れ(重量十数グラム)を食しており、他に原田義子等三名の女性も多少量は少めとはいえ肝を食べており、また別の席ではあるが同一のふぐの肝で同一に調理したものを二名の客が食している(石政男、島田敏郎)にもかかわらず、被害者にのみふぐ中毒の症状が現われたことが認められ(なお、被告人は客に肝を提供する前に試食するのが常であり、本件の場合も一切れ試食した旨のべている。)、そのような事情が認められる本件においては、被告人に本件致死の結果発生について客観的予見可能性があつたといえるかが検討されなければならない。

そこで、被告人が置かれていた具体的事情についてみると、前掲各証拠によれば、以下の事実が認められる。すなわち、京都府には昭和二五年に制定された京都府条例五八号ふぐ取扱条例があり、同条例の七条には「ふぐの卵巣、肝臓、胃腸並びにその他毒性のある部分は、これを調理、加工、陳列、保存、貯蔵若しくは授与してはならない。」とし、同一三条は「右に違反した者は二年以下の懲役又は禁錮若しくは五万円以下の罰金に処する。」としていること(なお、右条例は本件事件後である昭和五一年七月二三日改正され、罰則が二年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金に処すると重くされた。)、ふぐの肝臓、卵巣等の内臓は有毒で一般に、その程度はともかくとしても、生命身体に危険であると考えられているところ、近時ふぐ毒に関する研究の結果、ふぐの肝臓、卵巣等にはテトロドトキシンという猛毒が含まれており(青酸カリの二千倍の毒性があるという)、俗にいわれていた「ふぐ毒はふぐの血中に含まれているから、ふぐ一匹に水一石を用いて十分水洗をして血を洗せば毒は除かれる。」との考えは間違いで、ふぐ毒は血の中に含まれているわけではなく、水洗いによつては十分除毒することができないこと、被告人はふぐ処理士の試験に合格して前示のように京都府知事からふぐ処理士の免許を受けており、前示ふぐ取扱条例の存在及びその内容を知つていたことはもとより、ふぐの肝臓や卵巣にはテトロドトキシンという毒が含まれていること、ふぐ毒には青酸カリ以上の強い毒性があるにもかかわらず解毒の方法がなく、結局水で毒を洗い流すよりほかに毒を除去する有効な方法はないこと(ふぐ毒は比較的水にとけやすいといわれている)も十分知つていたこと、また、ふぐの肝臓や卵巣には毒があつて危険であると一般に考えられているが、京都府下では前示条例で定められて以来、当然のことではあるが、ふぐ料理に肝を調理して出すというような慣行は認められず、客のし好に応じて肝を出す店があつたとしても一部のものにすぎないこと(それもあんこうの肝か無毒ふぐの肝をとらふぐの肝として出しているともいわれている。ちなみに、あんこうの肝とふぐの肝の味はきわめて似ており、専門家でも区別がつけにくいとの証言もある。)、さらにふぐの毒性には個体差があり、また季節によつても変化するといわれており、しかも毒性が強いか弱いか或は毒が除去されたか否か外見から識別することはもちろん困難であつて、調理人が通常とりうる方法ではその識別はできないといつてもよい(動物に試食させるとか或は調理人自ら試食してみることは可能であるが、それとても食する量と関係することでもあり十分なものとはいえない)、そして前示のような被告人の肝の調理方法(相当ていねいになされていると一応認めてよいようであるが、通常牛や鳥の肝臓を調理する場合と基本的にことならず、血の匂いをとることを主目的にしていることは、被告人自ら捜査官に対して供述しているところである。)は、ふぐ毒を除去する方法としてそれ以外に方法がないものであるとしても、あくまで水洗いといういわば原始的方法にたよつた非科学的かつ不完全な調理方法というべく、そのため処理が十分できた部分とできない部分が生ずる可能性があり(さらに同じ肝でも毒の強いところと弱いところがあるとさえいわれる。)、俗に「ふぐ毒に当たるか当たらないか食べてみなければわからない。」といわれているように、そもそもふぐの肝を食することは、経験的にはともかく、科学的にははなはだ偶然にたよつた危険なことであるといわざるを得ないこと、以上のような事実が認められる。従つて本件で被害者一人だけが中毒したことも、同人がたまたま毒性の強いところを多く食したことに主たる原因があつたと認めるのが自然であり、被告人の調理方法により八、九年の間事故がなかつたということは全く偶然にすぎないというべきである。もつとも右のように事故がなかつたという事実は、顕著なふぐ中毒を起こすような強い毒を持つているとらふぐは稀であり、通常とらふぐの肝は十分水洗いをすれば中毒して死ぬようなことはないという事実を一応推測させるということができるかも知れない。しかし、前示のようにふぐ毒についての科学的解明が或る程度なされ、その危険性が改めて認識されたともいいうる今日(前示京都府のふぐ取扱い条例は右のような認識にもとづいて制定されたものである)、単に「ふぐに当たるのは稀である」との体験的事実を根拠に予見可能性を否定するのは相当でない。以上のような被告人の置かれていた具体的事情に徴すれば、京都府下においてふぐ処理士の資格を有する調理師であれば、とらふぐの肝臓を客に提供することによつて客が中毒し死に至ることについての客観的予見可能性があると認めるのが相当であり、従つて被告人は結果発生を回避するために、量の多寡にかかわらずとらふぐの肝を客に提供しないという措置をとることができたものと解するのが相当である。なお、弁護人が判例として引用する大阪高等裁判所昭和四五年六月一六日判決(刑事裁判月報二巻六号六四三頁)は本件と事案を異にするものと思料する。

4  つぎに条例で定められた義務と刑法上の注意義務の関係について一言すると、京都府にはふぐに関する条例があること前示のとおりである。

しかるに、法令等に定められた義務に違反したからといつて、ただちに刑法上の注意義務に違反したとはいえない場合もありうることは弁護人指摘のとおりであるが、しかし、法令、条例に規定された作為、不作為の義務は、ある一定の危険な状態を予想してこれを防止するために必要と考えられる処置を類型化したものであるので、これらは通常の場合同時に刑法上の注意義務を基礎づけているものと解することができる。(もつとも、このことは、千差万別の個々の場合のすべてに妥当するものではなく、具体的事実関係が法令等の予定する定型的な事実とちがつているようなときは、両者はかならずしも一致しない。)

そして前示のようにふぐ毒について或る程度解明がなされ、その危険性がふぐを調理する者はもとより一般にも認識されている今日では、特段の事情なき限り、その多寡にかかわらずふぐの肝を調理して客に提供してはならないとの注意義務があるというべく、右条例はこのような注意義務を取締の観点から特に明文化したということができ、従つて本件では条例で定められた義務の内容と刑法上の注意義務の内容が一致することになる。このことは、条例の有無で注意義務の有無がきまることを意味しないこともちろんであつて、ふぐ取扱条例のない県においても、ふぐの肝臓を客に提供することは一般に業務上の注意義務に違反するというべきであり、ただ、条例のある府県にくらべ具体的事情いかんにより客観的予見可能性の有無が問題とされる余地が多いというにすぎない。

弁護人は、条例の有無で刑法上の責任の有無がきまるとすれば法の下の平等に反する旨主張するが、右判示したところから明らかなように、当裁判所は条例の有無で刑法上の責任がきまるとの見解をとつているものではなく、また前示条例の有無が客観的予見可能性の判断に影響がありうるとする点は、予見可能性の判断が性質上具体的事情にもとづく判断であることから生ずるちがいであつて、むしろ合理的なちがいというべきであるから弁護人の主張は理由がないものと解する。

(法令の適用)

被告人の判示所為中業務上過失致死の点は刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、ふぐ取扱条例違反の点は昭和五一年京都府条例第四四号ふぐの取扱い及び販売に関する条例附則九号により同条例による改正前のふぐ取扱条例(昭和二五年京都府条例第五八号)一三条、七条に該当するが、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により重い判示業務上過失致死罪の刑によることとし、所定刑中禁錮刑を選択し、ここで情状について勘案するに、京都府下では条例によつてふぐの肝臓を調理し、客に提供することが禁止されているにもかかわらずこれに違反し、歌舞伎界の中心的存在であり、人間国宝として貴重な文化的財産ともいいうる被害者を死に至らせたものであつて、本件の犯情決して軽からざるものがあるといわねばならないが、他方、前示のように、本件において、被告人に結果発生についての客観的予見可能性があつたと認められるものの、事実としては、とらふぐの肝を食しても顕著なふぐ中毒に陥る例はまれであるということができ、(それゆえ「通」と称する客が肝を注文し、現在大体一都一六府県は条例でふぐの肝臓等を客に提供することを禁止しているものの、その他の県では条例で禁止していない。もつとも立法化を要求する動きはあるが。)さらに、前示のように同じふぐの肝を食した客のうち被害者だけが中毒死したということは、食した肝の毒の含有量のちがいがあつたであろうことを考慮しても、なお被害者の方に何らかの身体的原因(例えば心臓の卵円孔に比較的大きな穴があいていたという事実が認められるし、その他当時疲労のため抵抗力が弱つていたのではないかとうかがわれること)があつたのではないかとの疑を払拭できず、加うるに被害者の発病の態様も時間的に遅くかつ急激であつたため医療処置の余裕がきわめて少なかつたなど被告人にとつて不運な事情が重なつたたといいうること、前示のように被害者が肝を肝と十分認識して食していること、被害者が著名な歌舞伎役者であつたためニユース等で相当大きく報道され被告人としては一種の社会的制裁をうけたこと、被害者が若干ではあるが他の者より余計に肝を食していることもうかがわれること、ふぐ処理士の免許の取消を受けたこと等の情状(なお、示談は成立していないが、これは現在被害者の債権者から被告人に民事訴訟が提起され現在係属中との事情があり、いずれ然るべき解決がなされるものと予想される)を考慮し、その刑期範囲内で被告人を禁錮八月に処し、同法二五条を適用してこの裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 河上元康)

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